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真田幸村の生涯と最期の言葉

2016年1月から始まるNHKの大河ドラマ『真田丸』。主人公は真田信繁(のちの幸村)です。 真田幸村

ニュース・コラム 2016年1月8日 閲覧数:2112
2016年1月から始まるNHKの大河ドラマ『真田丸』。主人公は真田信繁(のちの幸村)です。
真田幸村といえば軍略に長けた猛将や大坂の陣で散った悲劇のヒーローなどさまざまなイメージがあります。また、真田幸村を語る上で徳川家康との対立は欠かせず、家康に対抗し続けた生涯と言って良いでしょう。
ではなぜ真田幸村は徳川家康と対立し続けたのか? この記事では、真田家の家系図と関ヶ原の合戦以降の真田幸村の生涯を中心に解説します。

真田家の3代の家系図

真田幸村の生涯を解説する前にまず、真田家の家系図を説明します。
 

真田家の礎を築いた真田幸隆

真田幸村の祖父、真田幸隆は甲斐国の武田信玄の家臣でした。武田二十四将にも数えられる名将で真田家の礎を築きました。かの有名な真田家の旗印「六文銭」も真田幸隆が使用し始めたものです。
 

徳川家康を恐れさせた知将真田昌幸

真田幸隆の跡を継ぎ真田家の当主となったのは真田幸村の父でもある真田昌幸です。真田幸隆と同じく武田信玄に仕え信玄の死後も武田勝頼に仕えました。

武田家滅亡後は織田家、豊臣家へと仕えました。特に豊臣秀吉には大変恩義を感じており息子真田幸村を人質に出しています。そのため真田幸村は幼少期豊臣家で人質として生活しました。

戦国時代屈指の智将とと言われる真田昌幸は関ヶ原の戦いでは西軍につき大活躍します。後の2代将軍徳川秀忠率いる3万8,000人の大軍をたった2,000人の兵力で足止めし関ヶ原への到着を阻止しました。
 

真田家を継ぎ徳川家に仕え大名になった幸村の兄真田信之

真田幸村の兄でもある信濃松代藩の初代藩主真田信之は徳川家康の養女小松姫と婚姻し親戚関係を結びました。
その関係もあり関ヶ原の合戦では父昌幸、弟幸村と別れ徳川方の東軍に付きました。関ヶ原の合戦後は真田昌幸の旧領を含む9万5,000石の大名になりました。
 

関ヶ原の合戦後の真田幸村

関ヶ原の合戦で敗れた西軍についた真田幸村、真田昌幸親子は徳川家康から死罪が下されました。
しかし、兄真田信之の助命嘆願の甲斐あって死罪はまぬがれ九度山(くどやま)への流刑になりました。
後に真田幸村が大活躍する大坂の陣が勃発する前に父真田昌幸は死去し、真田幸村は出家してしまいました。

しかし、慶長19年に起きた方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件に端を発し豊臣家と徳川家が険悪になりました。合戦の準備に入った豊臣家は大半の大名が徳川方につくことを想定し苦肉の策として浪人を集める策を取りました。

隠居していた真田幸村にも大阪城への入城を呼びかける使者が派遣されました。呼びかけに応えた真田幸村は父真田昌幸の旧臣たちと共に大阪城へ入城し大阪の陣へ備えました。
 

大坂の陣での真田幸村と最後の言葉

大坂の陣でそれまでほぼ無名だった真田幸村は全国武将たちに武勇を知らしめる大活躍をします。
真田幸村最後の戦いとなった大阪の陣を中心に真田幸村の人生のクライマックスと最後の言葉を紹介します。
 

真田丸を築き徳川方を苦しめた大阪冬の陣

大坂冬の陣で真田幸村は真田丸という出城を築き徳川勢を迎え撃ちました。結果、徳川勢を撤退させるほど活躍しました。しかし、大坂冬の陣を講和する際の条件として真田丸は破壊され、大阪城の防御力は半減し豊臣方は大幅に弱体化することになってしまいます。
 

徳川家康からの勧誘

大坂冬の陣講和後、徳川家康は真田幸村に徳川方に寝返るよう10万石という条件を提示します。
しかし、真田幸村は即座に断ります。
それでも諦めない徳川家康は信濃の国を与えるという破格の条件を提示してきますが同じく即座に断りました。
どんな好条件を提示されても豊臣家への忠義の心は揺るがず貫かれました。

真田幸村の豊臣家への忠義は関ヶ原の合戦から一貫しており、徳川家康及び兄真田信之との対立はまたしても避けることはできませんでした。
 

真田幸村最後の戦いとなった大坂夏の陣

豊臣方と徳川方の戦力差は大坂冬の陣以降大きく開きました。
難攻不落と言われた大阪城の外堀改修の結果、籠城作戦も効果的な戦略ではなくなりました。

真田幸村は一発逆転の秘策として徳川家康の本陣急襲を実行します。
真田幸村の徳川家康本陣急襲は計3回行われました。徳川家康が切腹を覚悟するほど追い詰めましたが最終的に逃亡されてしまいました。
そして、真田幸村も本陣急襲時に負傷し撤退を余儀なくされたのです。
 

真田幸村の最期の言葉

真田幸村の最後は本陣急襲撤退後、安居神社での討ち死にでした。
討ち取った武将は松平忠直配下の西尾久作です。
西尾久作に対して言った「もう戦う気はない。手柄にせよ」が真田幸村の最期の言葉になりました。
 

まとめ

真田幸村は大坂夏の陣の前に旧臣に対し辞世の句を残しています。
「さだめなき浮世にて候へ者、一日先は知らざる事、我々事などは浮世にあるものとは、おぼしめし候まじく候」
要訳すると「明日のことはどうなるか分からない時代です。私のことはもう死んでいるものと思ってください。」という内容です。真田幸村は大坂夏の陣前に既に死を覚悟していたようです。
関ヶ原の合戦、大坂の陣と対立し続け、徳川家康を最も追い詰めた波乱の生涯。兄弟が敵味方に分かれる悲劇にも見舞われました。
しかし真田幸村は生涯を通して己の信念を貫き通しました。
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